認知症の父
2024年9月29日
執筆者: 鈴木善樹

今回は私の認知症だった父のことと、ACPについて書きたい。
うちの父は、面白い人だった。私が生まれたころ、私たち一家は神奈川県相模原市の南部に住み、米軍基地の多いところで暮らしていた。基地の外に住むアメリカ人が少なからずいた。父は、隣に住んでいたアメリカ人夫婦のところに、ウイスキーを飲みたい一心で、英語を話せないのに行ってノミュニケーションをしていた。
私は小学校高学年のころで、学校にも英語の授業があって、好きな科目でもあり、通訳に駆り出されていた。父は私が語学に親しむキッカケを作ってくれていたのかもしれない。
そんな父は、人と話す床屋のようなサービス業がしたかったが、学校に通えず、中卒で最初働いた鉄工場で耳をおかしくしてしまった。宮古にいたら将来はないと思って、親の反対を振り切って盛岡に出て職業訓練校に通い、神奈川県での就職先を見つけてさっさと上京した。生活を切り詰めて買った土地の、持ち主の娘さんと結婚をし、一男(私)をもうけ、車の生産ラインで一週ごと昼勤夜勤、腰椎すべり症になりながらも、定年まで勤め上げた。
ところで、私が今の地域包括ケアの仕事をする中で研修で耳にしたことに、認知症を発症する要因10以上の中に、難聴や低学歴があるのを見て、それは後で変えられないじゃないかといやな気持ちになった。ちなみに学歴は生涯学習で取り戻せるかもしれないが、それもなかなか難しい。難聴は、治るのが難しく、補聴器が合えばラッキーだが、父親には合わなかった。父は単発の仕事もしなくなってからひどい認知症になった。兆候はあった。近くの公園の公衆トイレを詰まらせたということで警察に呼ばれ、公園を出禁になってしまった。お散歩が徘徊になった。母が家事をしていると、音もなく外へ出ていってしまう。止めようとしても父が難聴で聞こえない。それに、何かに突き動かされているようで、大声で呼びかけても止まらなかった。
トイレも失敗するようになった。
おむつをしていても、マットレスがびしゃびしゃになるほどの尿もれがあり、母は、どうやったらオムツと尿取りパッドとベッドカバーでそれを防げるか試行錯誤して、私に成果を発表していた。その頃の、病院での仕事の関係で知った、伊勢原協同病院の認知症外来にかかり、認知症のクリニックにもかかるようになった。

介護保険のサービスも使った。ケアマネジャーさんには、小規模多機能を勧められた。しかし、毎月こんなにかかるの?と躊躇してしまい、週5でデイサービスに行くようになった。母の休息と、風呂に入れるためだったが、それでも、父が大好きなお風呂には、父の強い希望に押されるように、母は入れてあげていた。
進行が進むと、歩くことも困難になり、毎夜に、後から考えると薬の副作用らしいが、父にベッドから起こしてと言われ、起こして車椅子に座らせると、片足で前後に動かしたあと、また寝床に寝かせてと言う。それを5分サイクルで夜中ずっとやられる。また、便が固くて出なくなり、それを摘便する仕事も出てきた。これはとても臭かった。
家での介護が徐々に無理になり、ケアマネジャーに頼んでお話しをしてもらい、まさかとは思ったが、精神病院に入院をお願いすることになった。ガラス越しに、わあわあ声をあげたり、よだれを垂らしながらこちらをジーッと見たりしている人たちがいる閉鎖病棟に、入れたことが分かった時の母の表情は、いつになく疲れていた。2週に一度、着替えを置きに行った。2ヶ月ほどして、9月半ばから老人病棟に移ることになり、医療費が2倍以上になったとき、考えてはいけないとは思いつつも、これから父はどのくらい生きるのか、正直不安になった。

年が明け、1月初めの父の死後、誘われた日本ホスピス在宅ケア研究会の市民部会で、父のACPを取り上げることになったので、母にACPについて話題に登ったことがあるのか聞いてみた。難聴や頑固さで意思疎通がうまくいかないのは、若い頃からなので、私なら半ば諦めていたが、うちの母親は、父が調子のいい時にどう看取られたいか、葬儀についてなどACPやDNARについて聞くようにしていた。父母には独特の感覚があった。人間の体は借り物だから葬儀やお墓に余計なお金はかけない。先祖代々の立派なお墓を作ったって意味がない。なぜ平塚には川崎のように合葬墓がないのだとぼやいていた。母の依頼で父の故郷浄土ヶ浜で散骨していないのか聞きにも行ったが、先祖代々の墓に入れるという感覚しかない人たちには、先祖をなぜ粗末にするのかと訝しがられた。平塚の人たちもこう言う感覚なのかもと思った。
父が亡くなってから一年半が経ち、横浜にある合葬式納骨施設に納骨を済ませた。その際、骨壷から骨を取り出し、パウダー状に粉砕するのは施設で事前にお願いした。施設は、その袋を60年間管理するが、あとは横浜市が責任を持って処分する。13万円ほどの出費にも母はとても満足そうだった。父の声はもう聞けないが、父も満足かと思われる。お家には今も写真を飾って、季節のお花やお菓子、果物を気の向くときに置いている。

執筆者プロフィール
鈴木 善樹 Yoshiki Suzuki
平塚市 福祉部 地域包括ケア推進課

神奈川県出身。
平塚市役所へ入庁し、福祉・医療分野の課へ配属。
1996年にカンザス州ローレンス市へ、大学と地域で福祉を学ぶため派遣され、現地職員の方に影響を受け、帰国後「地域で社会資源を作る・担う」活動を始める。
・精神保健福祉ボランティア「こんぺいとう」での食事会
・カベラ日本語の会にてカンボジア・ペルーのコミュニティと出会い機会創出
・FM湘南ナパサでの「ひらつか防災まちづくりの会」に関わる防災番組
・平塚パトロールでの砂防林の野宿者支援
・「ログハウスDO保健室(旧:はまひるがお)を立ち上げる。

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