1 精神科単科病院から地域の診療所へ
私は精神科医6年目の2023年4月より、平塚四之宮にあるメモリーケアクリニック湘南で勤務を開始しました。クリニックから徒歩10分ほどのところには、相模五社の一つに数えられる前鳥神社が鎮座されています。桜の季節から初夏の間は、勤務前のわずかな時間を境内で過ごし季節の移ろう心地を味わいながら出勤していたのは良い思い出です。精神科医5年目までは、神奈川県内の精神科単科病院で専門医研修課程におりました。そこでは精神科領域における豊富な症例を経験することができました。その反面、地域医療が主戦場である認知症の研修に限って言えば、経験の不十分さは否めないと感じていました。そんな問題意識の中、地域研修でお世話になった内門大丈先生が新たにこのクリニックを開院したことを伝え聞き、先生に勤務を打診したところ快く承諾をしてくださったのでした。
2 医師間連携による老年内科と老年精神科の専門性
メモリーケアクリニック湘南は、精神科、内科、外科などの分野を横断し高齢者医療全般に対応する診療所です。精神科医である内門先生だけでなく、内科や外科の先生も共に勤務されており、専門外で分からないことがあればすぐ隣の診察室に尋ねることができる環境となっています。病態が複雑化し様々な疾患を併存しやすい高齢者を診るには心強い環境だと感じました。不整脈など循環器系疾患が疑われれば内科の先生に、転倒し外傷を認めれば外科の先生にすぐに相談ができます。幅広い専門領域に対応できるのと同時に、認知症診療への専門性の高さも兼ね備えています。院長である内門先生が、レビー小体型認知症の大家である小坂憲司先生の元で長年研究され専門性を高められた経験があることはその専門性に格別を添えています。私は幸運にも、地域の診療所としては稀有な医療資源をもつこのメモリーケアクリニック湘南にて勤務しながら、先生方の診察を陪席し学ぶ機会を得ることができました。
3 専攻医時代の経験
専門医研修を受けた精神科単科病院では、優秀で志の高い先生方から精神医療の基礎や型を学ぶことができました。型のみならず精神科領域への鍼灸治療の応用、気分障害に対する経頭蓋磁気刺激療法(rTMS)、依存症治療、精神科救急など専門的な分野にも触れることができ充実した研修内容でした。個人的に特筆すべきと思う点は、記述精神病理学に精通した先生の記述方法や診察場面を間近に観ることできた点です。研修の早い時期に、精神病理学的に記述すること、記述する眼を養うことの重要性に気づきを得たことは、それ以後の診察時の眼の働かせ方に大きく影響したように思います。
4 抜けきれない診療の硬さ
単科精神科病院では豊富な経験を積み精神医療に馴染んできたと思う一方で、診療の場で生じてしまう硬さに課題を感じていました。ここでいう硬さとは、「自己開示につながるような親密さが診察の場で露呈する事態は、治療関係を維持するために意識的に引き止めねばならない。」という意識を指しており、この頃はその傾向が強くあったように思います。基本や型を学ぶ初学者が通らざるを得ない過程とも言えるかもしれませんが、その硬さは医療者―患者関係の輪郭を過度に強調し自然な交流を妨げていたように思われます。距離感を正しく保とうとするための態度が、患者側からすれば冷たく映っていたことは否めません。元来、人当たりは柔らかい方だと自負していたが故に、そのような硬さが抜けないまま診療に応じることにもどかしさを覚えていました。
5 親密さの手綱を握る心がけ
親密さと硬さの匙加減に課題を感じていた時期に、内門先生の診療を目の当たりにしたのです。先生の診療の場では、適切な治療関係を維持しながらも自然な人間交流が保たれていました。そこでは笑顔がよく生まれ、時に冗談を言うことが許される雰囲気が醸されるのです。認知機能低下という一般的には進行性で受け入れがたい現象に対して、本人と家族と主治医とが一緒に向き合う空気を演出します。主治医のそのような関わりの導きによって患者や家族の気持ちが悲観一辺倒ではなくなっていくのです。そのような場に何度も出くわすことができました。状況に応じた態度が精神医療には求められるので、心理行動症状が高まったり、初診時の診断への不安が渦巻いたりするときにも常に同じ和やかな雰囲気が流れているわけではありません。しかしどの診療からも、本人と家族が現状に折り合いがつくことを目指そうとする心がけが先生から伝わってきました。患者さんが今よりもいい方向に向かうことを願う心がけを忘れずにいれば、硬さを緩めてみても親密さが関係性を損なうことなく、むしろ良い効果を上乗せしながら診療を続けていくことができるのかもしれません。先生の診療の陪席を通じてそう感じることができました。
6 内門院長の診察時の様子と姿勢
内門先生の診療スタイルは精神医療を主軸としながら、生活習慣病や睡眠時無呼吸症候群、骨粗しょう症の検査・治療も行われる総合診療さながらの取り合わせとなっています。診療開始時間になると先生自ら診察室の扉を開けて患者さんを呼び入れます。扉を開けるその瞬間から先生の意識は診察モードに切り替わり、診療に必要な情報を集め始めます。その意識は待合室全体を見渡し、待たせすぎている患者さんはいないか、症状が強く早めに診察すべき状態の人はいないかなどの状況に気を配ります。僅かな時間でこれまで患者さんの経過を電子カルテで振り返り、患者さんが入室されれば身体を正面に向け姿勢を正し、視線を合わせた挨拶から問診が始まります。診察場面で生じるニーズは認知機能低下や行動心理症状、身体疾患の問題、家族の困り感など多様で、型にはまった診察では対処しきれないのが認知症診療の実状です。限られた診察時間内での最善を求めて巡る思考は、本人家族を含む診察室にあるすべての情報を意味あるものとして捉えようとしているかのように感じます。その日の患者さんの装いや表情、普段は付き添わない突然の家族の同行など、言語化される前の変化をも察知し、次の一手に備えます。血圧測定の時間でさえ、血圧を測る目的のみに使われるわけではありません。患者さんの橈骨動脈に触れる無言の交流を一方に、もう一方の意識はよりよい介入の一手を求め集中していることが陪席の距離感の中で伝わってきます。その一手は医学的介入としての薬剤調整だけでなく、認知症啓発の資材提供であったり、インターネットを活用した情報共有、後述する先生自身が関わる地域イベントのお知らせだったりします。時に、親しみ深い一言が患者本人と家族の関係性を和ませ薬の処方以上の効果をみせることすらあります。この診察空間では、あらゆる対象が主治医の心がけによって意味を帯び、医療行為の範疇を超えた人間交流を受け取る準備を許すのかもしれません。その心がけは、例えわずかな外来時間であったとしても相手に一体何ができるのかと問い続ける姿勢に支えられているのだと感じました。
7 社会的処方を見据えた診療所の取り組み
診療の陪席で得られる経験の他、診察室の枠を超えた活動から学ぶ事も多くあります。例えば、認知症の精神療法の専門家であられる繁田先生の生家を利用した栄樹庵での「認知症カフェ」や、「認知症と家族の一体的支援」などの地域向けの催しものに医師自らが旗振り役として関わる姿勢は、医療者の地域社会での役割を考える機会を与えてくれます。この文章が掲載されるウェブサイトの運営元である「湘南健康大学」や、「日本音楽医療福祉協会」など、診察室を超えた活動の数々は数えれば枚挙にいとまがありません。認知症に関心ある全ての人を対象としたアルツハイマーフェスもまた、内門先生の人徳と交友関係の広さが故に開催できるイベントかと思います。行政との連携にも精力的で、各自治体に設置されている「認知症初期集中支援事業」は、地域包括支援センターや保健所、市役所職員の方々と共に取り組む、クリニックに委託されている事業となっています。そこでは認知症の初期介入や困難事例に関連したアウトリーチの実践、高齢者に関する地域の健康課題の普及啓発についての話し合いなどが行われております。私もこの事業に参加し、診察室の外にある地域の生の声に日々触れることができています。
8 メモリーケアクリニック湘南のすすめ
診療所の内外を超えた幅広い活動に象徴されるように、メモリーケアクリニック湘南での勤務は多様な学びに満ちています。「地域医療の最前線ではどの様に現状を認識し、課題感を持って活動しているのか」。そのような問いを持つ認知症・高齢者医療に関心ある方は、問いに対する答えとして、いわゆる「社会的処方」を見据えた診療と活動が両輪で実践されていることに驚かれることでしょう。かつ、医師だけでなく、認知症や高齢者医療・福祉・介護に関心を持つあらゆる職種の方々にとっても、学びや気づきの多い医療機関といえると思います。これからの地域医療の理想の形の一つが、ここ平塚四之宮から始まっているのかもしれません。