経営の現場に“診断力”を持ち込むという挑戦
医師が“経営”を学ぶべきなのか――。一昔前であれば「本業に集中すべき」と言われたかもしれない。しかし、制度改革、人材不足、地域包括ケアの推進、診療報酬制度の制約など、医療現場の多くの課題は、経営と密接に関わっている。もはや「医療だけ」では成り立たない時代において、臨床と並び、経営的判断力を持つ医師の必要性は高まっている。
そのような背景の中で注目されているのが、「中小企業診断士」という国家資格である。経営の実務に即した実践的な知識を持ち、現場で役立つ“もう一つの診断力”として、中小企業診断士の意義が見直されている。
中小企業診断士とは:経済産業省の国家資格
中小企業診断士は、1963年に制定された「中小企業支援法」(当時は「中小企業近代化促進法」)に基づいて創設された国家資格である。経済産業省が所管する唯一の経営系国家資格であり、中小企業の成長や経営改善を支援する専門家として位置づけられている。
「経営コンサルタント」は法的な制限がなく、誰でも名乗ることができるが、「中小企業診断士」は国家試験に合格し、登録・更新義務を果たしてはじめて名乗ることができる、信頼性と公的根拠を備えた資格である。
現在では、行政、金融機関、商工会議所、民間コンサルタントなど多様な現場で診断士が活躍しており、医療・福祉・介護など非営利分野への応用も進んでいる。
試験制度とその難易度
中小企業診断士になるには、一次試験(マーク式)と二次試験(記述式)を突破し、その後、口述試験と実務従事(または実務補習)を経て登録する必要がある。一次試験の合格率は20〜30%、二次試験は15〜20%程度。一次・二次を通じた最終合格率はおおむね3〜5%と、非常に狭き門である。
一次試験は以下の7科目で構成されており、すべての科目で60%以上の得点が求められる。
• 経済学・経済政策(マクロ・ミクロ経済学)
• 財務・会計(損益計算書、貸借対照表、管理会計、投資判断)
• 企業経営理論(戦略論、組織論、マーケティング理論)
• 運営管理(生産・店舗オペレーション、品質管理、コスト削減)
• 経営法務(民法、会社法、知的財産権、労働基準法、安全衛生法)
• 経営情報システム(プログラミング、ITインフラ、セキュリティ)
• 中小企業政策(制度融資、補助金、税制支援、事業承継支援等)
医療職にとって馴染みの薄い分野が多く、体系的な学習が必要となる。
二次試験とそのナラティブ的思考
中小企業診断士試験の真骨頂は、二次試験にある。4つの事例(事例Ⅰ:組織・人事、事例Ⅱ:マーケティング、事例Ⅲ:生産管理、事例Ⅳ:財務・会計)について、与件文と呼ばれる企業紹介文を読み込み、80分以内に1000字以上の記述解答を行う。
この与件文は単なるデータではなく、「企業の創業背景」「創業者の理念」「成功・失敗体験」「経営承継」「外部環境への適応」などが物語として書かれており、まさに精神科でいう生活歴や病歴の分析に近い。「なぜ今、企業が課題を抱え、支援を必要としているのか?」を文脈の中から読み解く力が求められる。
また、分析にとどまらず、課題を明確にし、今後の成長に向けた具体的な助言を行うことが求められる。その助言は思いつきや経験談に基づくものではなく、一次試験で学んだ理論や知識を、与件企業の実情に即して論理的に応用する力が問われる。
特に事例Ⅳ(会計)は、キャッシュフロー計算、経営分析、投資判断、原価計算などが出題され、税理士や公認会計士でも苦戦する高難度である。
実際の試験問題は中小企業診断士協会のウェブサイトで公開されており、誰でも閲覧可能である。
中小企業診断士試験問題>>>
MBAとの違い:実務に即した“やりくりの知”
経営を学ぶ手段としてMBA(経営学修士)と中小企業診断士はしばしば比較されるが、その志向は大きく異なる。
MBAは、グローバル企業や上場企業を念頭に、戦略、マーケティング、ファイナンスなどを体系的・理論的に学ぶ。経営幹部や企業内の中核人材を育てる教育であり、コーポレート・ガバナンスに強みを持つ。
一方で中小企業診断士は、資金・人材・時間が限られた中小企業の経営改善に特化し、「いまある資源でどうやりくりし、明日を生き残るか」を考える、現場実務に即した国家資格である。
医療機関、とくに中小病院やクリニックは、診療報酬という公定価格のもとで経営を行う、いわば「究極の下請け企業」である。そこで生じる「やりくり力」こそ、診断士の実践知が真価を発揮する場である。
医師が取得して得られたもの
筆者自身も、精神科医でありながら診断士資格を取得した。
病院勤務の中では、経営視点が加わったことで、経費構造や業務効率を定量的に把握し、「これは本当に必要か」「何のための取り組みか」を判断する力がついた。人件費や稼働率の改善にも関与しやすくなった。
また、病院外でのスタートアップや起業家とのコラボレーションにおいても、共通言語としての経営知識が強みとなり、活動の幅が大きく広がった。
専門職同士の連携では、共通する“目的意識と言葉”が何よりも重要である。診断士資格は、そのための基盤として機能していると実感している。
医療と経営の“橋渡し役”として
これからの医療には、単に診療を行うだけではなく、医療と経営のバランスを取り、社会全体の資源配分の中で最適な価値を提供する視点が求められる。また、医療と産業、福祉や地域といった異なる領域をつなぎ、新しい価値を生み出していくような役割も重要になってくる。
中小企業診断士は、そのための“思考の型”を提供してくれる。医師がこの資格を持つことは、「診る力」に「経営の診断力」を加えるだけでなく、未来志向の医療・社会づくりへの新たな一歩となるだろう。