「心身一如(しんしんいちにょ)」という東洋医学の考え方を知っていますか?
身体を病めば即ち心を病むことであり、心を病めば即ち身体を病む、という解釈が成り立つと思います。東洋医学では、心と身体は一体不可分のものとして捉えられており、例えば鍼灸によって身体状態を改善することが精神の健康にも役立つという考えが根本にあると言えます。
その一方、西洋医学の精神医療では、「バイオ・サイコ・ソーシャル(biopsychosocial)」という考え方があり、生物(脳)、心理、社会という3つの次元で患者さんの評価や治療(支援)を行います。精神医療の現場では、抗うつ薬の目覚ましい普及にも関わらず、うつ病患者は増え続けています。アメリカや中国などにおいては、「うつ」を主訴として鍼灸院を訪れる人は少なくないと言います。鍼灸は気分障害における代替医療として注目されており、世界保健機関(WHO)もうつ病や神経症に鍼灸が有効である可能性を支持しています。
私の鍼灸との出会いは大学時代に遡ります。当時の私はボート部で年間100日以上の合宿三昧の学生生活を送っていました。大学3年の頃、オーバートレーニングや不摂生が重なったのか腰を痛めてしまいました。それ以来、ぎっくり腰(急性腰痛症)を繰り返すようになってしまいました。腰痛治療の目的で、大学の東洋医学センターで受けた鍼灸の効き方がとても印象的でした。鎮痛剤による除痛効果と大きく異なり、鍼灸では腰痛が軽減されるだけでなく、すぐにでもボートを漕ぎたくなるような活気を感じたのです。
大学卒業後、私は精神科医としての研鑽を詰むようになり、7年目で米国ボストンに研究留学する機会を得ました。朝から晩まで脳MRIのデータを解析したり、論文を作成したりしている内に、眼精疲労から腰痛が再発してしまいました。
ボストンにはハーバード大学で医師向け生涯教育などを担当している日本人の鍼灸師の先生がいると聞き、早速アポイントを取りました。
そこでは学生時代の鍼灸経験を超える体験がありました。
目や腰が本来の状態に回復するだけでなく、何とも表現し難いのですが、peacefulな感覚をともなった回復だったのです。よく覚えているのが、鍼灸院からの帰宅途中に車を運転しながら、ひどい交通渋滞やマナー違反のドライバーと遭遇しても、ほとんど何も影響を受けない穏やかで包摂的な精神状態のことです。
振り返ってみると、学生時代も留学時代も、鍼灸を通して「心身一如」を体感していたように思います。WHOの提唱するwell-beingの感覚にも近いのではないかと思うようになりました。
4年にわたる留学生活において、腰痛患者として毎月の鍼灸を継続しましたが、月日が経つごとに鍼灸は精神医療でも役立つはずだと確信していきました。
帰国後、神奈川県立精神医療センターに新たに開設された「ストレスケア病棟」で、鍼灸の臨床研究を10年間行いました。うつ病や双極性障害などの気分障害や神経症圏の患者さんが多く入院する病棟のベッドサイドで鍼灸の効果を実感する機会に恵まれました。意欲的で献身的な鍼灸師の先生方に支えられ、週2回の鍼灸施術を5週間かけて10回実施する臨床研究を続けることができました。研究から脱落する人は1.9%ほどで、満足度がとても高いことを看護師や心理士、作業療法士など多職種で実感しました。
一番多かった感想は「身体が楽になりました」というもので、その患者さんから発せられるノンバーバルな表現の変化がそれを強く裏付けるものでした。プラセボ効果を検証できないオープン試験でしたが、精神症状尺度の変化を見ても、不安・抑うつ・怒りはいずれも有意に改善していました。
諸事情により、「ストレスケア病棟」での鍼灸研究は10年で一区切りをつけることとなりました。しかし、これを研究だけで終わらせてはならないという思いが徐々に強くなっていきました。その頃、私は成人期の発達障害当事者の診療に携わるようになっておりましたが、この人の身体愁訴に対して鍼灸を受けてもらったらどうだろうなあと自然に考えるようになっていました。
「ストレスケア病棟」の鍼灸研究メンバーと2ヶ月毎にオンライン会議を続ける中で、APネットワークの着想が生まれました。APネットワークとは、鍼灸師(A: Acupuncturists)と精神科医(P: Psychiatrists)の相互的な連携システムです。
精神科鍼灸の臨床研究や基礎研究は今後もさらに重要となりますが、臨床家として精神疾患に悩む患者さんに鍼灸という医術を届けるシステム作りも大切ではないかと思い始めたのです。コロナ禍の2021年12月末にAPネットワークのメーリングリストを立ち上げて、現在は450名ほどが参加して下さっています。2ヶ月毎にオンラインイベントを開催し、既に10回ほど開催しました。さらにAP連携の強力なツールとなる「鍼灸院リスト」の初版が完成したばかりです。まだまだ発展途上のAPネットワークですが、どうか皆さんに見守って頂きたいと願っています。
わが国では、明治維新以降、長い伝統のある漢方や鍼灸は民間療法などとして事実上医療制度から切り離されました。そして近年、漢方薬はわが国の保険医療において一定の地位を奪還しましたが、鍼灸の普及や研究は大いに立ち後れています。少し専門的になりますが、精神科鍼灸や「心身一如」の生物学的メカニズムには、皮膚(経穴)のポリモーダル受容器から求心性に中枢神経系を修飾するボトムアップ・ニューロモデュレーション(bottom-up neuromodulation)のモデルの関与が想定されています。鍼灸による経穴刺激によって脳幹、視床下部、大脳辺縁系への影響があるとする脳科学の知見が集積されつつあります。鍼灸は長い年月を生き延びた先人の智慧でありますが、この古い医術を先端的な医療として再発見することができれば素晴らしいと思いませんか。
APネットワークは精神医療における東西両医学の融合を実現し、患者さんに届けたいと活動しています。
最後までお読み頂き心より感謝申し上げます。