──10歳で始まった、終わらない旅──
振り返れば、僕の人生にはいつもどこかで“音”が鳴っていた。
それはまだ10歳、小学校4年生のとき。
遠足帰りに向かった博品館劇場。
歌、ダンス、芝居、タップ。
あらゆるジャンルが入り混じった、ひとつの“エンタメの渦”を目の当たりにした。
ただの好奇心だったはずなのに気づけば心のどこかが熱くなり、目が離せなくなっていた。
「こんな世界があるんだ」
「自分も、こんな風に演じてみたい」
あの日を境に、僕と表現の旅は始まった。
■ 12歳──ジャズダンスとの出会い
初めてスタジオに足を踏み入れたときの空気を、今でも思い出す。
汗と木の床の匂い、鏡越しに揺れる自分の姿。
そして目の前にはキラキラして踊る先生達。
体が音楽に合わせて動くだけで、心が跳ねるような感覚があった。
12歳の少年には、それが何よりの喜びだった。
ある時、先生から言われた。
「ジャズダンスは、バレエの基礎があるともっと綺麗に踊れるよ。」
その言葉が胸に刺さり、14歳でクラシックバレエを始めた。
ジャズとは違う厳格な世界。
プリエの深さ、軸の取り方、つま先の通し方、、
どれも新しく、難しく、、
でもきづけばいつの間にかその世界にのめり込んでいた。
“踊り”そのものをもっと深く知りたい。
そんな想いが、日増しに強くなっていった。
■ 人生を変える映画
転機は、映画『愛と悲しみのボレロ』。
赤いテーブルの上で、ラヴェルのボレロを背に独り踊るジョルジュ・ドン。
その瞬間、息をするのを忘れるほど魅了された。
「この振付をしたのは誰だろう?」
その答えを追い続け、たどり着いたのがモーリス・ベジャール。そして、彼が創設したスイス・ローザンヌの名門バレエ学校だった。
世界中の才能が集まるその学校へ、いつの間にか心が決まっていた。
「ここで踊りたい」
17歳、家族を説得し、夢だけを抱えて何の保証も繋がりもないスイスへ向かった。
オーディションの帰り、みんなが騒いで声をあげていたが英語やフランス語やスペイン語、、
様々な言語が飛び交い何が起きているのか分からなかったが後々聞いてわかったことは、
“今残っている人は全員合格”
あの日のローザンヌでの感情や景色は今でも忘れられない。
■ 17〜20歳──ローザンヌでの濃密な日々
スイスでの3年間は、僕の人生の濃度を一気に上げた。
クラシックバレエはもちろん、モダンダンス、声楽、民族舞踊、そして振付師モーリス・ベジャールの理念と哲学が盛り込まれたレパートリークラス。
世界の文化と音楽が入り混じる環境の中で、「表現とは何か」を深く体に刻み込んだ。
時には悔しさで眠れない夜もあったし、言葉が通じず泣きたくなる日もあった。
というか泣いてホームシックだった。
でも、踊りだけは世界共通語だ。
音楽が流れれば、体は自然と前へ動く。
気づけば、言葉の壁よりも先に仲間との絆が生まれていた。そして何よりガムシャラに引かずに前を出ることが当たり前だった欧米ならではの日本では図々しいと思われても仕方がないぐらいの自信が全ての助けになっていた。
あの経験がなければ、今の僕はない。
そう言い切れるほどの、青春のすべてが詰まった時間だった。
■ そして“ミュージカル”という新しい扉
20歳、日本に一時帰国したときのこと。
昔見ていた劇団四季の『キャッツ』を再観劇した。
照明が走り、音楽が物語を動かし、ダンスが世界そのものを作り上げていく。
舞台の上の“総合芸術”に改めて心を奪われた。
「ミュージカルで生きてみたい」
その想いに身を委ね、劇団四季の門を叩いた。
合格の知らせを受けた時は、ローザンヌでの自信が付いていたからか、受かって当たり前だという自信が既にあった。
その理由としては、受かること以上に作品でメインキャストをやりたい、という想いが強かったため、「合格」は一つの通過点になっていた。
初舞台は『キャッツ』——
客席で胸を熱くした作品に、今度は自分が立つ。
それは夢が現実に変わる瞬間であり、人生がまた表現することに導かれた証でもあった。
その後、『ウィキッド』『コーラスライン』『アラジン』『エビータ』『ソング&ダンス65』『コンタクト』など、数多くの作品に出演させていただいた。
舞台は時に厳しく、時に優しく、そしていつまでも終わりのない新しい挑戦を与えてくれた。
■ 退団後の新たな挑戦──俳優として、振付家として
劇団四季を退団した後、半年ほどは燃え尽き症候群になり、スペインやタイ、台湾など自分が行きたかった国へ旅に出た。
しかし今までの評価もあり舞台との縁は途切れずいくつかの出演依頼を頂けた。
TBS主催『ウエストサイド物語』、ホリプロ主催『ビリー・エリオット』『東京ラブストーリー』『ジェイミー』などの作品でプリンシパルとして出演。
さらに、若い頃に培った経験が“振付”という形で花開いた。
バレエ学校時代や劇団四季時代にもさせて頂いた振付の仕事は、やがて宝塚歌劇団の作品にも携わるようになった。
演者としてではなく、作品の世界観を“創る側”に回る——それはまた違う喜びがあった。
■ そして今──創作という新しいステージへ
現在、株式会社LGOの代表として活動している。
自分がこれまで学んだすべてを使って、舞台制作やイベント企画といった“新しい表現の場”を作りたいと思っている。地道な作業ではあるが、若い世代はもちろん、踊ることや表現することに興味や関心、達成感を感じたい全ての方々にそのような機会を提供出来るような環境を作っていきたい。
10代、20代の僕は舞台しか見えていなかった。
社会のこと、世界の動きに目を向ける余裕もなかった。
でも今は、エンタメ以外の世界にも関心を持ち、学びを深めることで、表現の幅はもっと豊かになるはずだと信じている。
音楽も身体表現は、僕から離れたことは一度もない。
遊び道具のようだった時代も、親友だった時代も、戦友だった時代もあった。
そして今は、迷ったときに毎回背中を押してくれる“同志”のような存在だ。
音楽は不思議だ。
人生の節目に、必ずどこかでキッカケを与えてくれる。そして奇跡を起こしてくれる。
出会いを導いてくれる。
その音や表現に導かれて、これからも僕は前へ進んでいきたい。