スーツ姿のまま乗合船で鯛を釣る~私と緑内障のプロローグ|
月初めの月曜日又は金曜日が、私だけの「眼科の日」である。特に異常があるからでは無いけれど、毎月一回の眼圧測定・カメラで眼底チェック・細隙灯顕微鏡検査・視力査等、近所の眼科で「目の健康チェック」は私のレギュラーアイテムである。
大学を1964年(昭和39年)に卒業した翌年の8月頃、同期の仲間4人で気分転換と近況報告を兼ねて千葉県の富津市へ。宿泊先は同期の実家である根本旅館。
その日の夜は、根本君の配慮で富津漁港からの新鮮な魚と旨い酒が用意されていた。久々の再会で大いに盛り上がった様子は今も記憶に残っている。
根本君から、翌朝は乗合船で富津名物の鯛釣りを進められていたので、前夜の酒が抜けきらないまま4時起きで富津漁港へ。
漁港に着くと、完全武装の釣りマニアの乗船が始まっていた。我々4人は仕事帰りのままなので背広姿。釣りマニア達からの冷ややかな視線は実に痛かった。
船長からは、背広姿で鯛釣りなんて見たことないね。背広は波をかかぶって台無しだぜ!と冷笑しながら、鯛釣り道具の使い方や餌の付け方をレクチャー。
船内で座るポジションは、釣りマニアを避けて船の先端付近に確保したところで背広姿で鯛釣り!のスタート。
出港して3~40分経った頃に船長から釣りOKの合図があった。既にかなりの波しぶきをスーツが浴びている。釣果も無いままに、ポイントを探しながら1時間ほど経過した頃に、背広組の一人が、釣れた!と大声を上げながら鯛を釣り上げた。
それから暫くして私も鯛を釣った。船長が、背広姿で鯛を釣っちゃうなんてお笑いだね!素人は怖いと笑った船長の声が船内に響いた。背広組は大盛り上りで煙草が実に旨かった。かなり波が大きくなって来たけれど、釣りは未だ未だ終わらないそんな時、完全武装の釣りマニアが、背広姿を苦々しく思ったのだろう。薄笑いしながら、背広お兄さん達の場所が一番船酔いするところだけど強いね!と言葉だ飛んだ。船酔い!と云う言葉で、背広の釣り師は目が覚めたのか、一気に船酔い。
乗合船が港についても船酔いで完全にダウン。暫く船宿で休ませてもらった。
何!この状態でヨーロッパへ行きたいって?
医師として、現状から見ても賛成できないね!
疲労困憊で帰宅後はすぐに就寝。翌日起きると右の目に異変が起きていた。
腫れぼったくてゴロゴロしていて痛い。サングラスもせずに何時間も海にいたせいかもしれないと思いながら一日が過ぎた。仕事の同僚が、JRの新橋駅至近にある「新橋眼科」を紹介され駆け込んだのが1965年8月の事だった。この時から、緑内障との付き合いが始まったのである。斉藤院長に目に異常を感じた経過を話しなながら、細隙灯顕微鏡検査検査でスコープに顔を乗せたところ、医院長が「これは大変だ」と声を上げた。看護師に指示を出しながら、眼圧・眼底・点滴・静脈注射。
病名は告げられないまま、緊急の応急手当のような処置にしたがっていた。
1965年の8月に発症してから半年が経過した頃、院長から失明の危機的症状だったけれど良く持ちこたえたね!とひと言。在津君の病名は大変やっかいな「緑内障」といって、現状では緑内障の発症も原因不明。治療方法も手探り状態。そのために、新橋センタービル内のクリニックで、梅毒・結核・エイズ等の検査をするように指示された。幸いにも)問題なしで安堵したことが思い出される。
院長の指示は、一週間週会社を休み安静にしておくこと。禁酒・目を保護するためにサングラスをすること。結婚話があっても1~2年は目の回復経過を優先するように。毎日通院すること。眼帯。飲み薬数種類と目薬3種類。不安な気持ちで一週間週間が経過したところで、発症した右目の状態も少し落ち着き、本格的な治療レベルベルとなった。毎日の通院。通院の度に静脈注射と眼底チェック・洗眼・赤外線。薬の処方は、ダラナイド・クロロマイセチン・キサラタン・フルメトロン・サンピロ。
失明の危機をはらんでいる「緑内障」だけれど、緑内障にも色々あり、当時としては、治療対策も研究途上で治療薬の種類も少なく、特に在津君の緑内障は一番やっかいな病だったと数年たった頃に院長か聞かされた。60年も前のことであり、適切な治療法無かったそうだ。医師としての経験と力量から臨機応変の処置と決断に委ねられていたのである。
私の場合は、炎症と眼圧のレベルが異常に高くなることから、眼圧のチェックは慎重であった。発症から1年が経過した頃は、時々眼圧が30近くまで高くなることがあったが、ダラナイドと目薬の処置で大きな問題も無く推移していた。60年近く前のことであるが、当時サングラスをしているのは、その筋の方か芸能人。
常識的に昼間の勤め人のサングラス姿はあまり好感は持たれない。幸いにも広告業界の新進のコピーライターでありグラフィックデザイナーと行動することもあり、カタカナ職業業の業界人でなんとなく許されていた。でも、夜の銀座や深夜の電車では、「チョットとやばかった」。
1966年7月中頃の或日、院長に、8月中旬頃から約一ヶ月程、ヨーロッパ9カ国の観光地取材という仕事が舞い込んで来たのだけれど、いかがなものでしょうかと聞いた。院長「う~ん!今は少し安定して大事な時期。外国となると環境も旅行生活もかなり厳しいから賛成できない。自分の目のことだから再考することを勧めるね」医師の意見としては確かにそうかも知れない。このチャンスを逃すと二度と海を渡ることが出来ないだろう!と自問自答しながら、翌日、医院長に無理をせず十分に目を労りながら行くことに決めました。すると、医師としてあまり賛成は出来ないけれど在津君が、覚悟を持って決めたことだから、十分に気を付けて行ってきなさい。チャンスは逃したくないよね在津君といって豪快に笑った。院長に出発が8月26日に決まったと報告すると、3種類の目薬・ダラナイド(眼圧降下)・クロロマイセチンなど一ヶ月分を処方された。就寝時には五分程度目を冷やすこと。サングらスを忘れないこと。アルコールは控えるしっかり睡眠をとること等注意事項の書いてメモが処方箋に添付されていた。
いざ!ヨーロッパへ9カ国45日間の取材旅へ
・・旅は快適!帰国後地獄・・
1966年8月26日にルフトハンザで羽田を発った。日本人の海外渡航制限が1964年に解除され、1965年に日本初の海外旅行パッケージツアーである「ジャルパック」第一弾の発売開始。当時JALパックのツアー参加者に配布されたJALのロゴ入バッグが海外旅行者の間でステータスとされていた。外貨の持ち出しが500$、Ⅰ$360円、そんな時代であった。羽田空港の送迎ターミナルでは、万歳三唱で外国への渡航者を送り出していた。
パスポートと目薬は肌身離さず・・・
約20時間の南回りフライトでローマの、レオナルド・ダ・ビンチ国際空港到着。
大量の薬を詰め込んだ鞄と供に、欧州9カ国の取材旅行が始まった。
ローマを発って10日ほど経った頃だっただろうか、朝起きると枕にかなりの髪の毛が付着していた。気候や湿度が変わると抜け毛もありかなと、あまり気にとめていなかった。院長の指示通りに一日数回の目薬と3種類の投薬を一日2回。
寝る前に目を冷やす。旅も大詰め近くになると取材メモの整理や資料のチェックが就寝前のひと仕事。資料の文字が見にくく感じていたが、ホテルの部屋のお明りは日本より薄暗いから仕方が無い。そのくらいの認識で目の具合うが悪化していることに気が付いていなかった。観る物聴くものすべてに興奮と接することの喜びは探求と好奇心がマックス。そんなヨーロッパの取材旅行も終わり、ロンドンのヒースローから、ルフトハンザで飛び立った。羽田に到着しタクシーで自宅へ。首都高を走行しているとき、スモッグの中を走っているように感じたので「運転手さん今夜は随分ガスッてるね」と話しかけたら、お客さんガスってないよ結構明るいよ今夜は」と返してきた。サングラスをしているからかも知れないとサングラスを外すと、霞がかかっている状態。これは右目が完全に再発したと確信し大きなショックを受けた。機内では薄暗く帰国の安堵感で寝ていることが多かったので異常を認識しないまま羽田に到着。旅の興奮は一気に冷めて、ただただ新橋眼科へ掛けこむことだけを考えていた。
病名は「虹彩炎~続発性緑内障
・・旅は快適!帰国後地獄・・
帰国した翌日に朝一番で新橋眼科に向かった。、細隙灯顕微鏡検査検査で覗くなり大声で「前より悪化している、だから云わないこっちゃない」と叱責。眼圧は40で真っ白!。さてどうするかと、いつにない厳しい表情で、眼圧を下げるためにひまし油のような物を飲まされ、ベッドで横になっていた。Ⅰ時間後にトイレに行き改めて眼圧を測定したところ20まで降下。院長が在津君「旅は快調・帰国後地獄」
だねと笑った、その日から、これまで以上に、腕には毎回静脈注射と毎月2回の眼に注射!。ステロロイドとクロマイの併用。飲み薬は細かい指示が。このほか飲み薬と目薬。症状が改善されると、投薬も注射もひと休み。再燃すると復活。そんなことが10年程続続き、新橋眼科通いの回数も激減。しかし、喜びもつかの間。緑内障の悪さは、左の眼にも起きたのである。症状も右目と同じで緑内障の第二弾。
新橋眼科の斉藤幸市院長流の実験的対応策は左の眼で既に確立していることもあって順調に推移していった。此処で始めて、カルテに記載されている正式な病名を知ることになった。「左右とも虹彩炎~続発性緑内障」これは、眼圧が大きく影響する緑内障の中でも特殊でやっかい。その原因は今も研究段階だそうだ。発症から60年になるが、この間、眼圧の異常と炎症が数年に2~3回起きることがあったが、静注と眼注の対応で回復。それ以来ここ30年程、私の緑内障は完全な休火山状態で悪さもせずに住み付いている。まさに仲良く共生ということだ。戦友と云ってもいいだろう。キャリア60年にもなると、瞼から眼球の硬さで眼圧の自己測定が出来る事。白熱球を片目で見て廻りが虹色の輪が見えると眼圧が高い。
緑内障と暮らして、こんなエピソードが・・・
1・緑内障のキャリア5~6年の頃、広告業界の重鎮に連れられて銀座の高級クラブへ行った時、入口の黒服が「サングワスの方はご遠慮下さい!と冷たく言い放った。すかさず、重鎮が「在津先生、サングラスしていると入店出来ないそうです。すみません」と大声を発したところ、黒服は大変失礼しました。どうぞごゆっくお遊びください!店の入口に張り紙が、「サングラスと雪駄とその筋の方お断り」さすがの黒服も、先生!に弱い!サングラスしていても銀座で遊べる。
2・斉藤幸市先生は、与野市の与野眼科医院が始まりで1965年春に新橋眼科を分院として開院。豪放磊落で強面の医師。緑内障の名医として名を馳せていた。
3・あるとき、1時間以上も待たされ、次はやっと私の番だ!と思っていたところ、ずかずかと入ってきた大柄の男性と、品のいいお年リが診察室に入りそのまま診察を受けていた。名前を呼ばれ立ち上がったところ、診察を終えたお年寄りがすれ違いざまにお先に失礼しましたと云った。このことを院長に話したら、あのお年寄りは、某組の大親分だよと云った。以来時々遭遇・・・。
4・薬の副作用~発症してからた2~3ヶ月を経過した頃、食後に全身に赤い発疹が現れた。クロロマイセチンの副作用からで、飲むの止めて一週間で改善。ステロイドの場合は異常なほど食欲が、頭髪が抜けていたのも、副作用の多い薬の副作用であったがい幸いにも、他の臓器などの影響は無く現在に至っている。
静脈注射も眼に注射も300回を遙かに超えているが、何の影響もなく健在。
エピローグ
発症してからの数年は、不安な気持ちと同居しながらコピーライターとして仕事をこなしていたが、何年もの間のストレス気分転換は音楽であった。安定した頃は、外国からのミューミュージシャンの日本公演や赤坂や銀座のジャズクラブ。酒は飲まないけれ並木通りへ。大学の後輩が出演しているクラブ等で楽しんでいた。
かなりの年月が経過すると、眼科医との付き合い方や、事前に異常を察知することで悪化の早期対策などが出来た。緑内障との付き合い方を覚えたことで心の負担もなく一日一日を重ねていった。失明の危機を救って下さった大恩人の斉藤幸市院長はお亡くなりになって10年。改めて合掌。新橋眼科は2025年10月を持って65年の歴史を閉じる事になった。
あるとき、仕事の関係から当時先進的な若者の間で流行っていた「ミニFM局」というラジオ放送遊びの存在を知った。緑内障騒動で眠ったいた好奇心と遊び心に火がついた。緑内障の発症から18年目の1983年11月に、自宅にミニFM局を開局。ミニFM局というラジオと音楽遊びが発展し、藤沢市のコミュニティ放送局「レディオ湘南」でマイクに向かい続け来年は30周年。音楽はパートナーである。